わりとまえの劣等感と思いやり

~わりとまえの劣等感と思いやり~

今日は一旦家に帰ったあと、9時過ぎに練習の音源の受け渡し。
やる気が今一つはっきりしない。
難しいから自由に歌っていいよと言われると、過保護にされている気がして不愉快だ。
かといって、今より少し上を求めるつもりで説明をすると、それは面倒くさい。
つまり、自分が主導で成果を達成するのが気持ちいいのだから、人の施しなど気持ちいい訳がない。
ましてや、自分が出来ない人の扱いを受けているとなれば、なおさらだ。
どちらでも自分がいいと思う方でいいよなんて優しさは尚更だ。
じゃあそれも踏まえて接してもらっても困る。
思いやりは劣等感と組合わさるときりがない。
でも思いやりにも、劣等感にも罪はない。
自分が勝手に組み合わせて、本末転倒になっているだけだ。
出来ないことを悩むのは自然だ。
でも、悩み続けることにあまり意味はない。
五分悩むのも、三日悩むのも結論は変わらない事が多い。
その時間を別の事に使った方がいい。
段々そういう葛藤が馬鹿らしくなってきた。
劣等感なんて、トイレに行くぐらい自然な事だ。
恥ずかしいけど、恥ではない。
なんだったら、少し眺めてみて、自分の調子を知ることができる。
そう思うと、なんだか急にかわいく思えてきた。
だから、結局いつも通りに、いいものはいい、悪いものは悪い、微妙なものは微妙でいいと思う。
これは、僕の話でもなけれは、誰かの話でもない。
しいて言うなら、僕ら人間の話。