まえがき

まえがき

言葉が止まらない時がある。
いつからだろうと振り返ってみると、それは高校時代まで遡る。
当時放映されていた、ツインピークスというドラマの中で、FBI捜査官デイルクーパーが、事件捜査の記録をボイスレコーダーに吹き込むシーンがあった。
物語の節目を告げるこのシーンに、高校時代の僕はなんだか妙に惹かれたのだ。
そして自分も真似てみたくなったのだが、ボイスレコーダーなど持っていない。
当時は、携帯どころかポケベルも持っていない時代だ。
かと言って、ラジカセに録音するのも家族に聞かれたら恥ずかしくて、仕方なくノートに書くことにした。
ボイスレコーダーの向こうの誰かに話しかける気分で、実のところただ日記を記しているようなものなのだが、書いたあとに達成感があった。
書くことは、昨日見た夢とか、日常の些細な憤りを客観視してみたりとか、他愛もないような事だった気がするが、意外と飽きは来なかった。
それどころか、次第に日課になり、大学生になっても続いたこの習慣は、無気力な留年時代にピークを迎える。
今思えばこの習慣が3度の留年の呼び水のようでもあったが、そこから引き揚げたのも、この湧いてくる言葉達だった気がする。
そして社会人になった事を機に、この習慣はピタリと止んだ。
というか、突然やってきた現実社会に対応するのに精一杯で、そこに気が向かなくなったのだ。
しかし、30歳をを過ぎた頃、自分の中の言葉と再会した。
きっかけは、3年手帳だった。
書き出しはたわいなく、誰の為のものでもなかったが、体の中にとどまっていたものが少しずつ流れていくように、言葉が再び流れ出した。
南米のマヤの挨拶で、インラケシュという言葉がある。
「私はもう一人のあなたである」
と意味らしい。
40年以上生きて行くうちに、一つ漠然と納得したことがある。
それは自分以外のものはすべて自分の可能性だということ。
そして結局全部が自分であり、自分は全部である事なんだということ。
なんのために書くのだろうと悩んだところで、結局僕は僕のためにしか書けない。
出来るとしたら、それは自分の中の誰かにだけだ。
僕が全部の入口であるなら、苦しみも喜びもそこからつながるものもあるだろうか。
願う事から世界が始まっているとするならば、僕とこの世界の一体を信じ始めるところから、今日を始めていきたいと思う。